勝賀城跡について

勝賀山山上


勝賀山上の看板

史跡 勝賀城跡  昭和55年8月6日高松市指定
 中世の讃岐国の豪族香西氏は阿野・香川郡など中讃を本拠として十八代三百六十余年にわたり栄え、その間、山麓の佐料に居館を構え天険の地、勝賀山頂に勝賀城を築き要害城としていた。
 この城跡は、山頂のほぼ平坦地に土塁を主体とする喰い違い虎口、郭、堀切りなどの様子をよく残し、その保存状態も良好であり、豪族香西氏の城郭遺溝の中でも代表的なものであるとともに中世山城の研究にとっても貴重な史跡である。                               高松市教育委員会
   
     
(登山口の看板)

勝賀城跡
昭和五十五年八月六日高松市指定     (高松市鬼無町・香西西町・植松町)

勝賀山(標高三百六十四メートル)山頂には鎌倉時代から戦国時代の約三百六十年間、笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠に活躍した香西氏歴代の城跡があります。広い山頂には頑丈な土塁によって守られた本丸(東西四十メートル、南北六十メートル)を中心に二の丸、三の丸を形造り、難攻不落の名城をうかがわせてくれます。 現在も、巧妙な縄張(設計)とともに普請(土木工事)の様子がよくわかる貴重な中世の山城として、高松市の史跡に指定されました。
                           高松市教育委員会
勝賀城跡(山上)の様子

本丸
三の木戸(大手門)
喰い違い虎口
   上端折れ
      井戸
  土塁基底部石垣
        堀切



佐料城
笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠とする香西氏の居城跡で、讃稜の館とも呼ばれる。香西氏初代資村は、承久三年(1221)の承久の乱において幕府方として軍功をあげ、阿野北条、阿野南条、香西、香東、の四郡に勢力を広げた。讃岐藤原氏一門の頭領となり、勝賀山に詰城を築き、麓の佐料に平時の館を築いたとされる。天正五年(1577)に十八代佳清が藤尾城を築いて移るまで、代々この城に拠って、中央政界ともつながりを持ち繁栄した。

内堀
 城の内と呼ばれている土地の南西側にはL字状に堀跡が残り、北東側にもL字状の地割が見られ、約六十五m四方の方形館と考えられる。周辺には、城の台、馬場の谷、東門、北堀、城の新屋などの地名や屋号が伝えられる。

 
城の南東隅には、「南海治乱記」、「南海通記」の著者香西成資の父、植松吉兵衛時信の墓碑がある。

                                    高松市教育委員会